ケンタッキー紀行
Cumberland Gap カンバーランド峡谷
18世紀後半、アメリカ十三州植民地の西には巨大な壁のようにアパラチア山脈がそびえており、
西部をめざす開拓者たちは、まず、この山々を越えなければなりませんでした。
この山越えルートとして最も有名なのが、カンバーランド峡谷といわれる峠です。
ちょうど、ケンタッキー、テネシー、ヴァージニア三州の境界にあたっています。
ダニエル・ブーンを始め、多くの開拓者がここを越えてケンタッキーをめざしました。
いまでは一帯が国立公園になっています。
Visitor Center 案内所には、カンバーランドの歴史や自然についての紹介展示、
工芸品も売っているギフトショップが併設されています。
ここで周辺地図をもらって、出発です。
カンバーランド峡谷を望むことのできる山の頂上(744m)のすぐ近くまで車で行けます。
さすが、アメリカ、とってもらくちん。
峠の標高は488mあまり、開拓者はこの山の狭間を抜けて北へ進みました。
自由のための裁判所のレコードを検索する方法
この周辺は1000m級とそれほど高くはない山々ですが、比較的平坦なケンタッキー中央部まではかなりの距離。
開拓初期、家財道具を抱え、道なき道を進むには非常な困難が伴ったはずです。
正面南がテネシー、左手がヴァージニア 右がヴァージニア 左がケンタッキー
今ではトンネルが作られ、あっという間にケンタッキーからテネシーへ抜けてしまいます。
7年の歳月をかけて1996年完成。 4,600ft (1,400m)
けっこう、本格的なトンネルですけど、トンネル大国日本から考えるとたいしたことありませんなぁ。
〜 そういえば、アメリカではあまりトンネルって見かけません。
さて、トンネルを越えて、ケンタッキーから少しはみ出すのですが、今回はご容赦ください。
東へ走ると、ヴァージニア州、州立公園がありました。
Historic Martin's Station at Wilderness Road State Park
西部開拓の拠点の集落を復元しているようです。
アパラチアの麓にあって、のどかな雰囲気です。
開拓者は山を眺めながら、明日はあれを越えていこう、と希望に胸をふくらませたんでしょう。
レスリーp.roods 、S 。
村には当時の服装をした人々が語らっています。
と、測量器具を抱えたお兄さんに声をかけられます。
「土地を求めてきたのかい、俺が手続きをしてやるぞ」
ということで、開拓会社(?)の書類を作ってくれました。
なんでも、一週間後にこの書類をもって、開拓隊に加われば500エーカーの土地がもらえるとのこと。
ははっ、すごい〜
ダニエル・ブーンは土地開発会社に雇われて、
こういうふうに開拓者を引き連れ、ケンタッキーに入ったのです。
名前を書いてサインしてくれます
書類をもらって、にこにこしてると、
「最後に質問がある、君は王党派か、独立派か」
「あっ・・・独立派です」
「よしよし」
このあたりを開拓していた当時、
ちょうど植民地とイギリスとの対立が深まっていた時期でした。
Abraham Lincoln Library and Museum
もときた道を走って、テネシー州へ入ります。
なぜワイタンギ·デーはとてもsepcialです。
ここに Lincoln Memorial Universityという学校がありました。
どうして、またリンカーン?
大学の由来を調べてみると・・・
南北戦争当時、北部にも奴隷制を容認する人もいましたし、南部にも奴隷制反対の人々がいました。
たとえば、ヴァージニア西部、山岳地帯の人々は奴隷制に反対し、
南部連合に加入したヴァージニア州から1863年に分離しました。
これが、35番目の州ウエストヴァージニアです。
このカンバーランド周辺の人々も奴隷制に反対し、連邦を支持していました。
南北戦争中、リンカーンはこの地域の忠誠に報いたいと語っていましたが、
戦争終結まもなく暗殺され、それを果たすことができませんでした。
リンカーンの言葉を聞いていたある将軍がその意志を受け継いで設立したのが
この大学Lincoln Memorial Universityだそうです。
その由来から、リンカーンゆかりの品が集まり、現在では博物館として一般に公開しています。
設立にあたっては、カーネル・サンダースが多額の寄付を寄せました。
入口には、斧をたてかけ本を持った青年リンカーン像。
薪を担ぎながら本を読んでいた、努力家のイメージです。
博物館の中には、南北戦争とリンカーンに関わるいろんなパネル、像、当時の品々、
リンカーンが五十二歳の誕生日に使ったベッドが仰々しくおいてありました。
さすが、リンカーン。
すべてが伝説となり、憧れとなり・・・。
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